蛭子能収(えびすよしかず)さん(70)は、芸能界のクズといわれますが、確かに特別な才能が有るわけでもないのに何でテレビに出ているの?って感じのオジサンです。
普通のオジサンどころか、ギャンブル好きでキツイ仕事は大嫌いで楽なことが大好きなオジサンです。
本職は漫画家なのですが、漫画での収入は月に20~30万円程度だそうです。
それに比べテレビの出演料は、1本で20~30万円で、本人が言うには、とにかく楽なんだそうです。
本音というか、精神が腐っているクズ人間のような考えのオジサンなんです。(笑)
でも、おとぼけキャラでどこか憎めない、いるだけで面白い蛭子能収さんなのです。
出身が同じ長崎ということもあり、蛭子能収さんには親しみを感じてしまいます。
今回は、そんな蛭子能収の漫画家として経歴や芸能界入りのきっかけについて書いてみたいと思います。
蛭子能収のプロフィール
生年月日:1947年10月21日(70歳)
出身地:熊本県天草市生まれの長崎市育ち
最終学歴:長崎商業高等学校
孤高時代は美術部でグラフィックデザイナーを目指していたということで高校卒業後、地元の看板屋に就職しています。
多分、看板屋に就職すればデザインの勉強ができると思ったんだと思いますが、実際の看板屋は看板の組み立てや取り付け作業が多いのです。
蛭子さんは、体を動かすことが嫌いで不器用なところがありますので、よく叱られたようです。
そんな時に誘われたの漫画のサークル活動だったようで、蛭子さんを漫画の方へ駆り立てる駆り立てることになります。
そして、4年半程勤務した看板屋を辞め、1970年に漫画家を目指して上京します。
漫画家を目指して上京
蛭子さんは上京して、出版社など就職先を探しますが高卒では就職先がなかったようです。
そんな蛭子さんが、イチかバチかの勝負に出たのがギャンブルと言いますから、やはり蛭子さんて本当にクズですね。(笑)
結局、看板屋に就職しますが、その後職を転々とします。
しかし、漫画家になる夢は捨てなかったようで1973年「月刊漫画ガロ」8月号掲載の入選作「パチンコ」で漫画家としてデビューしました。
上京から結婚まで
蛭子さんの嫁さんは、高校時代に良く通っていた画材屋の娘さんの貴美子さんなのですが、結婚するきっかけも蛭子さんらしいと思ってしまいました。
というのも蛭子さんは、元々貴美子さんに恋愛感情は持っていなかったようです。
知人が、蛭子さんが東京で頑張っているが厳しいようなので、手紙を書いて励まして欲しいとお願いしたことから文通が始まります。
そして、姉が上京する時についてきた貴美子さんと2~3回デートしただけで、「俺と同棲しない?」と切り出したようです。
積極的に自分から動いたわけではなく、たまたま偶然に来た相手を嫁さんにしてしまったというのが、いかにも蛭子さんらしいと思います。(笑)
1972年に長女の史英さんが生まれたのを機会に入籍しています。これも蛭子さんらしいですね。
1974年には、長男の一郎さんが生まれています。
しかし、蛭子さんは漫画家としてデビューは果たしていますが、「月刊漫画ガロ」は経営難でノーギャラだったのため、嫁の貴美子さんが家計を支えていました。
さすがに、蛭子さんも奥さんや子供にお金の苦労を掛けたくなかったのか、ダスキンのセールスマンとして働くことにします。
その後、しばらくは漫画家としては活動を停止した期間もあり、一時は漫画家で収入を得ることを断念し、長崎へ帰ろうと思ったこともあるようです。
漫画家としての転機
蛭子さんの漫画家としての転機は、成人向け雑誌だったとということに驚いてしまいます。
今は見かけなくなりましたが、当時は成人向け雑誌の自動販売機があり、自動販売機専用の雑誌の漫画の依頼があったということです。
蛭子さんは、自分の描きたい漫画ではなかったのですが、高額な原稿料のため引き受けることになります。
当時の原稿料が1ページ6000円だったようで、毎回12ページで72000円の収入があったそうです。
この時、蛭子さんは初めて漫画で原稿料をもらうことになります。これが1979年のことですから、上京して10年にしてのやっと漫画で収入を得ることができた喜びは大きかったと思います。
その後、コンビニが広まりコンビニでも成人向け雑誌が販売されるようになると一挙に仕事量が増え、漫画家として生活できるようになります。
1981年にはダスキンのセールスマンを辞め漫画家として独立することができました。
当時は、「自販機本漫画界の大御所」と言われていたということですから、ある意味すごいことだと思います。
しかし、さすが蛭子さんギャンブルも忘れていなかったようで、生活費に入れた残りのお金はギャンブルに消えて行きました。(笑)
芸能界入りのきっかけは?
1980年に劇団東京乾電池の柄本明さんから劇団ポスターを依頼されことです。
ある時、榎本さんから「舞台に上がってみない?」と誘われたようです。
なんでも、蛭子能収がいるだけで面白いという理由からでした。
これがきっかけとなり、1987年に「笑っていいとも!」に文化人枠としてレギュラー出演するようになります。
この後、テレビドラマ「教師びんびん物語II」やバラエティー番組にも出演し現在に至ります。
蛭子能収さんのことを特別な才能がないと言いましたが、これは訂正する必要があります。
蛭子さんは、確かに演技面ではヘタかもしれませんが、それがかえって人間味を感じ、人を引き付けるている原因になっています。
これが、他の俳優さんにない魅力だと思います。
まとめ
今回は、蛭子能収さんの漫画家として経歴や芸能界入りのきっかけを書いてみました。
蛭子さんについては、人間的な魅力が満載で、まだまだ書き足りないことが多いのですが、また機会を改めて書きたいと思っています。
最後までご覧頂きありがとうございました。
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